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基幹型臨床研修病院

「気管チューブ抜去・薬剤投与死亡事件」への声明

川崎協同病院「気管チューブ抜去・薬物投与死亡事件」の最高裁判決後の動向について
死亡した患者は「終末期」ではなく、病態の評価と処置そのものに誤りがあった

2010年10月 川崎協同病院 院長 大山美宏 (肩書きは当時)
はじめに
昨年12月7日に川崎協同病院「気管チューブ抜去・薬物投与死亡事件」の当事者の一人である須田セツ子医師の刑事裁判の最高裁判決がでました。その内容は「本件における気管内チューブの抜管行為をミオブロックの投与行為と併せ殺人行為を構成するとした原判断は(高裁)、正当である。」というものです。しかし、須田医師のこの判決を批判する発言が新聞雑誌などのマスコミに取り上げられています。さらに須田医師が「私がしたことは殺人ですか?」という著作を発刊して以来、終末期(注1)のあり方に関心が集まっております。

終末期医療や延命治療(注2)中止の問題について、医療界をはじめ国民的に活発な議論が行われることは、私たちとしても必要だと考えています。しかし、その議論のもととなる個々の事例や事件については、まずは冷静に事実を見極める必要があります。

 須田医師は、亡くなられた患者が「終末期」であり、救命が困難で回復の見込みがないという判断のもとに「延命治療の中止」の処置を行なったと述べています。当病院としては、須田医師の助からないという病状判断は誤りであったと判断しています。病状は、治療に全力をあげるべき時期であったこと、さらに、この患者は脳死状態(注3)でもなく、植物状態(注4)でもなく、「終末期」でもありませんでした。事実の経緯と合わせて医学的な見地から上記について当病院の見解を記します。
注1 川崎協同病院の終末期の定義:「難治性の疾患を患い、現在のあらゆる医療技術を駆使しても治癒の見込みがなく、死がさけられず、余命6ヶ月程度、あるいはそれより短い余命の状態」(川崎協同病院「終末期医療に関する指針」より)
注2 延命治療:「一般的には、“何らかの治療行為を行わなければ死に至るはずのものを、生きながらえさせる”ための治療としての意味合いで使われている」(学術会議)
注3 脳死状態:大脳と小脳さらに脳幹がすべて障害を受けて機能しなくなった状態であり安定した自発呼吸は保てない。咽頭への刺激に対する反射も消失する。
注4 植物状態:大脳の機能の一部又は全部を失って意識がない状態ですが、脳幹や小脳は機能が残っていて自発呼吸ができることが多く、その状態が3ヶ月以上継続している。
「回復の見込みのない」「救命は難しい」という病態評価は誤り
 1998年11月2日、当時58歳の患者が、気管支喘息の重積発作にて心肺停止状態で当病院に運ばれ、救命処置の結果蘇生された後、入院してから15日目の同月16日に事件はおきました。患者は、入院時から重症の意識障害が続きましたが、すでに人工呼吸器は必要なくなり、鼻からの挿入した気管内チューブ(経鼻挿管)のまま自発呼吸が安定していました。そのチューブの入り口から流している酸素濃度は50%で、血液のなかの酸素飽和度(注5)は94%以上に保たれています。
注5 酸素飽和度:室内空気(吸入気酸素濃度21%)を吸っている状態の健康成人では98%前後であるが、95%以上あれば安心出来る範囲。本患者の最低値は94%であり、それ以上に保たれており、肺における酸素を取り込む機能が残っていることを示している。
 入院時から肝機能障害は認められますが、急激な悪化は見られていません。腎機能も一貫して正常で尿量も保たれ、血圧、心電図などから循環動態は安定しています(図1参照)。  38~39度の発熱が持続して白血球と炎症反応が増加し、細菌感染に起因する敗血症を合併していた可能性がありますが、16日の胸部レントゲン写真では、左下肺に軽度の無気肺(気管支の一部がつまりその部分のみ空気の出入りがない状態)が認められる程度で、明らかな肺炎像は認められません。  喀痰については6日に黄色ブドウ球菌、腸球菌、11日には緑膿菌の検出が報告され、16日に採取し19日に届いた培養結果は、肺炎球菌、緑膿菌、セラチア菌の3種ですが、それぞれ抗菌薬に多剤耐性とはなっておりません(表1参照)。適切な抗菌薬を選択すれば治療は可能です。  須田医師の診療録記載にも13日「痰も多くない、もう少しこのままいきそう」、16日「LEVEL,呼吸状態とも変化ない」とあり、死を予測させるような病態の変化はありません。  以上から事件当日の患者は、須田医師が判断した「回復の見込みがない」、「救命は難しい」という結論をだせる病状にはなく、全身管理を行いながら、細菌感染症の治療に全力をあげるべき時期と考えます。そして気道の感染を左右する喀痰の管理、ならびに喀痰による気道閉塞を防ぐための最適な処置は気管切開(注6)であり、その処置を行うことが可能な病状でした。
注6 気管切開:喉から皮膚を切開して気管に管を入れて気道を確保する方法
脳死状態でも、植物状態でもなかった、ましてや「終末期」ではない
この状態であれば、本来なら病状評価のため、脳や肺のCT検査などが行われてしかるべきと考えますが、診療録上このような検査の検討がなされた形跡はありません。しかし、このような検査がなされていなくても、患者に安定した自発呼吸があることから脳死状態ではなく、植物状態とも言えない時期であることは明白です。治療によって回復の可能性のあることとあわせて、「終末期」と判断する病態ではありません。
 しかし、これらの病態について須田医師の診療録では、主治医となった4日の時点で「9割9分は植物状態」、自発呼吸が回復し安定している8日には「9割9分9厘は脳死状態でしょう」と、誤った説明を患者の家族にしています。これは、患者の病状とは大きくかけ離れた断定的評価です。
医療倫理上許されない行為
 亡くなられた患者の病態と、それに対する処置について、川崎協同病院は、次のように判断しました。1、このように意識障害のある患者の治療では気道の確保が原則である。2、この患者の病態における気道の確保と吸痰のため、そして酸素投与のための経鼻挿管チューブの抜去及びセルシン4アンプル、ドルミカム7アンプル以上などの鎮静剤(注7)、・筋弛緩剤(注8)であるミオブロック3アンプルの投与は確実に死をもたらす。
 以上の点から、当病院は、須田医師の処置が医療倫理上許されない重大なものであると判断し、社会的批判は覚悟のうえ、本人に反省を促し自首を勧め、事実関係を公表しました。
 法廷での証人の発言は、それぞれが記憶に基づいて事実を真摯に述べたものであり、病院が偽証を勧めたことは断じてありません。
また、遺族への民事的補償は、医療倫理上許されないという判断のもとに行ったのであります。
注7 鎮静剤:鎮静作用をもつ薬剤、この2つは静脈麻酔にも使われるので、量が多ければ呼吸も停止する
注8 筋弛緩剤:筋肉の動きを止める作用があり、呼吸筋も止まってしまう。
一人で決めない、一度で決めない
 須田医師は、著書『私がしたことは殺人ですか?』(青志社、2010,4,17発行)のなかで、「終末期かどうか、延命治療の中止は一人で判断するものであり、客観的データではなく、その場の空気で判断するもので、ご家族からの同意書などは必要ない」という見解を示しています(p40-43を要約)。これは、いくつかの医療関係の学会や学術会議などから提案されている「終末期のガイドライン」の基本的考え方(①終末期の判断はチームで行う ②治療の中止、差し控えも判断をチームで行う ③患者・家族の合意が必要である)とは相容れません。
 私たちは、当時の医療管理の不十分さと集団医療の不徹底について反省し、この事件を教訓として、外部評価委員会のご意見を参考にし、医療スタッフも患者、家族も「一人で決めない、一度で決めない」を基本としてきました。その上で、インフォームド・コンセントを改善し、人権尊重の医療を展開し、再発防止のために努力していく覚悟でおります。
なお、事件の詳しい経過は、川崎協同病院のホームページで、内部調査委員会と外部評価委員会の報告書として掲示しておりますのでご参照ください。
表1
黄色ブドウ球菌
腸球菌
11/4 採痰
11/6 報告
CPDX…3+
ABPC…-
PIPC…-
FOM…3+
CEZ…3+
CCL…3+
MINO…3+
EM…2+
CPDX…+
ABPC…3+
PIPC…3+
FOM…2+
CEZ…2+
CCL…2+
MINO…3+
EM…3+
黄色ブドウ球菌
11/9 採痰
11/11 報告

PIPC…+
CEZ…-
CTX…-
GM…2+
MINO…2+
CAZ…+
LFLX…3+
FOM…3+
肺炎球菌
緑膿菌
セラチア菌
11/16 採痰
11/19 報告

CPDX…3+
ABPC…3+
PIPC…3+
FOM…3+
CEZ…3+
CCL…3+
MINO…2+
EM…3+
PIPC…-
CEZ…-
CTX…-
GM…3+
MINO…2+
CAZ…2+
LELX…3+
FOM…3+
PIPC…3+
CEZ…-
CTX…3+
GM…3+
MINO…3+
CAZ…3+
LELX…3+
FOM…2+
「気管チューブ抜去・薬剤投与死亡事件」への声明 図1 病状経過
  • 外部評価委員会報告書
  • 内部調査報告